すべての予定が止まった日ーー履歴書を送るはずだった日に:Bloom開業の舞台裏3

2015年にイギリスの外国人歯科医師国家試験「ORE」に合格した私は、
「いつかまたロンドンで働いてみたい」という気持ちを、心のどこかで持ち続けていました。
「またロンドンで暮らしたい」――あの時の気持ち
私が初めてロンドンに留学したのは2004年。まだ幼かった子どもたちと母を連れての一年間は、
不安と喜びが入り混じる、今でも忘れられない大切な時間でした。
その時5歳だった長男が大学に入学する頃になったら
「もう一度、ロンドンで暮らしてみたい」という気持ちはずっとありました。
とはいえ、OREに合格した2015年から数年、
夫と運営する診療所の責任も日増しに重くなり、帰国後に生まれた当時小学生の次男の進学や進路にも悩み、本気で決断に至ることはありませんでした。
それでも、「まずは一歩踏み出してみよう」と思えたのが、2018年の終わりごろです。
動き出した夢の準備
まず行ったことは、英語の試験IELTSの受験。
GDC(General Dental Council)に正式に登録するには、英語試験IELTSで平均7.0以上、さらには4つのセクションのうちどれか一つでも6.5未満のスコアがないこと、という厳しい条件があります。つまり、日本人の得意なリーティングで得点を稼ぎ、苦手なリスニングやスピーキングの穴を埋めて平均をあげる、ということができません。1回目の受験は平均は7.5だったものの、リスニングで6をとってしまったため、バツ。2回目の受験でやっと、スコアをクリアしました。
IELTS試験会場は若者ばかり。あ、あの人、同じくらいだな、と嬉しく思ったら、受験生についてきているお母さんでした笑。
次に行ったのが歯科医院のリサーチ。
イギリスで歯科医師として働くには、就労ビザのスポンサーライセンスを持つクリニックに雇ってもらう必要があります。クリニック側も、ビザを持たない勤労者を雇うことは大きな責任と費用、ペーパーワークが増えるため、よほど欲しい人材でなければわざわざ就労ビザのスポンサーになることはありません。しかし一縷の望みをかけて、Home Officeのリストを検索し、ビザサポート可能な日系歯科医院2件に連絡を取りました。
なんとそのうちの1件から、「履歴書を送ってください」と返事が届きました。
「いよいよ動き出すかもしれない」
履歴書を作り、知り合いのイギリス人にチェックを頼み、オンラインでミーティングの予定を立てていました。
その前日に届いた宣告
けれど、履歴書をみてもらうためのミーティングの前日、突然、すべてが止まりました。
母の病気が発覚したのです。
診断は重く、予後も非常に悪い悪性の病でした。
「治療しなければ数ヶ月、治療しても5年生存率は低い」と医師は言いました。
私は一人っ子で、すでに高校生の時に父を亡くしています。
英語教師という天職を50代前半で手放し、私たち家族と同居し、
3人の子どもの育児を一手に引き受けてくれた母の命が、突然危機にさらされた。
絶対に死なせたくない――その思いで、すべての予定は吹き飛びました。
翌日に起きたもう一つの“事件”
さらに追い打ちをかけるように、その次の日には、スタッフ数名に一斉に退職を宣告されるという事件が起きました。夫と真摯に続けた診療が受け入れられ、患者さんがどんどん増え、忙しさもピークを迎えていました。スタッフの疲弊と不満に、私も夫も、経営者として気づいていなかったのです。
それはまさに、「あらゆる優先順位が入れ替わった瞬間」でした。
履歴書のことも、ロンドンのことも、私の頭からは完全に消えました。
さすがの試練の連続に、体重が3キロも減りました。
「諦めたはずの夢」に、なぜか残した一筋の道
そこからしばらく、ロンドンの夢は封印。
ただ、完全に閉じたわけではありません。
2020年、コロナが猛威をふるっていて、ロンドンはますます遠のいたと思っていた頃。
私は一筋の道を残すために、GDC(General Dental Council)に歯科医師として登録しました。
GDCへの登録にはIELTSの提出が必須になっていたことは前述しましたが、英検などの資格と違い、IELTSのスコアの有効期限はたった2年。2018年になんとか取得したスコアの期限が迫っていました。
IELTSは厳しい試験です。もう一度受験して、同じスコアが取れる自信はもうありませんでした。
「このIELTSの2年の期限が切れる前に登録だけでもしておこう」と思ったのです。
止まっていた時計が、再び動き出したのは
夢が再び動き出したきっかけは、明確にはありません。
ただ、次男が高校を卒業したことが、大きな節目になったのは間違いありません。
自分の時間が、少しだけ自分のものになった時。
再びロンドンのことを考える余白が、心に生まれたのだと思います。
今だから、言えること
人生には、「やろうとしていたこと」が、
どうしようもない力によって止まってしまう瞬間があります。
でも、それは失敗でも諦めでもなく、
「その時ではなかった」というだけのことなのかもしれません。
そして、たとえ長い時間がかかっても――
もう一度動き出した時、その夢はきっと、もっと深くて、もっと強い意味を持っているように思います。
次回予告
第4回:「動き出した時計と、新しい決意」
GDCに登録してからの数年間。CPD取得、大学院、IELTS、再出発。
止まっていた時間の中で、私がどんな準備をしていたのかを綴ります。